ぼくらは仕事で強くなる。

人や組織のこと、事業のこと、働くってこと。LoanDEAL代表のブログです。

個人の限界が、組織の限界であってはいけない。

かつて、部署や事業の責任者として組織のマネジメントを任せてもらっていた時に、意識していたこと。個人の限界が、組織の限界であってはいけないということ。結局、どうすればよいのかということにいまだ答えは出ていないのですが、だからこそ、記しておこうと思います。

私の場合、20代後半から部門長という肩書で仕事をさせてもらって、大小さまざまな組織のマネジメントを経験させてもらいました。

最初は、自分のやり方をとにかく押し付けるということをしていました。当時は、結果を出したことで責任者になれたという変な自負があったので、同じやり方を全員に押し付けるというやり方しか思い浮かばなかった。で、結果としては、だれもついてきてくれなくなった。部署のみんなが、「辞める」と言い出したほど・・・。

どうしてよいかわからず、路頭に迷っていた時に、今でもお世話になっている先輩からアドバイスをいただきました。「確かにお前は10点取れるかもしれない。部下のみんなは5点かもしれない。でも5人の部下がいたら、25点だよ。一人で25点取れるか?そして、みんなが6点取れるようになったらどうなる?それが管理職の面白いところだよ」と。当たり前のことかもしれないけど、ちょっと調子に乗った新米管理職にとっては、かなりガツンとくるメッセージでした。

次に任せられた部署では、前回の反省を踏まえ、先輩の教えを胸に、臨みました。あと、カーネギーの「人を動かす」という本にもかなり感化をされて。

みんなのやりがいを重視して、意見を尊重して。結果として、すごく雰囲気のよいチームになった。本当に毎日が楽しくて、がりがり仕事して、がんがんお酒も飲んで・・・。あのころの一体感というのは、すごかったなーと今でも思うくらいです。

ただ、振り返ってみると、その時のチームのパフォーマンスが、ベストだったかというとそうではなかったように感じます。先ほどの何点取れるかっていう話で言うと、自分が10点取れるのに、みんなのやりがいを重視して、5点に対してOKを出していた節があるように思うのです。もしくは自分にも10点が見えていなかったのかもしれません。少なくとも、私が雰囲気の良さに甘えていた。5人のチームが5点取ることも大事だけれど、それをそれぞれ10点にすることを目指して試行錯誤をすることを怠っていたように思います。

この二つの経験を踏まえると、10点を取れるなら取れるでそのやり方を見せなくてはいけない。ただそれを見せることによって、メンバーのやり方を否定したり、みんなが盲従してしまうような環境をつくってはいけない。それ以降、なるべくそれを意識して取り組んできたつもりですが、はてさてうまくできていたかどうか。

そして最近、もうひとつ新しい気付きがありました。(今は管理という仕事から離れているので、少し客観的に見れているのかもしれません。)

そもそも10点というモノサシ自体がどんどん変わっていく必要があるべきですよね。それが「組織が限界を超えていく」ということだと思うんですが、特定の個人がどれだけすぐれていても、やはり一定の基準値が設定されていると、それとの対比でしか語れなくなってしまう。それだとやっぱりその個人の10点以上は取れなかったりする。

それなら、いっそのこと、マネジメント側のモノサシを見せないというやり方はどうだろうか、と。

メンバーのやりたいように自由に考えさせる。ただし、10点未満でOKは絶対に出さない。そして、正解は言わない。点数もつけない。メンバーにとって、これほどやりづらいことはないかもしれません。マネジメント側にとっても、ブレない10点のモノサシと、理解不能な10点以上とおぼしきものを見極める眼力がなくてはいけない。それでも、そうすれば、個人の限界に影響されることはなくなりそうです。

一般論で言えば、もちろんビジョンや方針が指示されて、それに向けて一貫性をもって戦略がつくられて・・・となるのでしょうし、それはその通りだと思います。ただ、こと組織のマネジメントにおいてみたら、必ずしも明示することが正しいとは限らないのかもしれません。明示することの弊害を知り、マネジメント側もメンバーも不確実性に耐えうる強靭な組織体というのが存在するのでしょうか。

そういうやり方を、意識的に選択できている方がいたら、すごいだろうなぁ。それこそ、個人の限界なんてものを組織が簡単に超越できるのかもしれません。もしかしたら、あの人やあの人のマネジメントはそうだったのかもしれない、と思ったりしています。

矛盾という器

人にとって、組織にとって、その中でどれだけの矛盾を共存させられるかっていうことが「器」になるんじゃないかなぁ、と思うんです。何かひとつのことにすごく秀でている人ってたくさんいるけど、そういう人よりも、すごい厳しいけど愛情たっぷりの上司、とかのほうが「器」がでかそうなイメージがあるんですけど、どうでしょうか?

どんな仕事であれ(まぁ仕事以外でも)、私たちはしょっちゅう矛盾に直面します。何か、コンテンツをつくっていれば「量と質」のどちらを追うのか?って話になる。プロジェクトにかかわっていれば、「納期と完成度」のせめぎあいになる。何か新しいことを始めようとすれば「安定とリスク」の間で揺らぐし。

で、いろいろ葛藤はするものの、結局のところ「まぁ、これとこれはトレードオフだよね」なんて言って折り合いをつけながら、どっちかを選択して日々を過ごしていたりするわけです。

でも、当たり前の話なんですけど、本当は「どっちも」が理想的な答えなわけですよね。

大学を卒業したての頃、写真のワークショップみたいなところに通っていたことがあって、その時に森山大道さんという(すごく有名な、と補足するのも恐れ多いですが・・・)写真家の方に話を聞いたり、写真を見ていただいたりしたことがありました。すごく有名な方だとは知っていたものの、正直、当時の私は森山さんの話にすごく違和感を覚えました。ご自身のとられた写真についてひどく説明的に、そして、すごく当たり前のことをずいぶん御託を並べて話すなぁ・・・と。

今にして思えば、どうにも自分の浅はかさを恥じる次第ですが、当時、芸術表現とはとにかく感覚的なものだと、感性を研ぎ澄ませていくことこそすべてだと、そんな風に思っていたわけです。しかし、本当に表現をしている方は、そうではなかった。なぜ写真をとるのか、なぜこの写真を撮ったのか、なぜこういう見せ方をしたのか。それらをものすごく明確に、深く意識している。そしてそれを超越してあまりある感性によって表現が完成されている。見事に両極に振り切れているんですね。

芸術表現に限らず、あらゆる仕事が、こうあるべきだよなぁ、と最近改めて思うわけです。量を増やしたいから質を落としてもよいよねとか、納期を守りたいからまずまずの完成度でいいよね、とか。論理的に考えて、とか、選択と集中とか言ってみたりすると、それっぽい感じになっちゃうけど、それって素人の仕事なんだ。それでメシを食っている以上、いかにしてすべてを成り立たせられるのかを突き詰めるべきだ、と。

一個人のスタンスだって同じで・・・自分の価値観を明確に持つことは大事だけれど、だからといって異なる価値観を受け入れることが不要になることはない。周囲とうまくやることは必要だけれど、議論を回避してよいわけがない。このブログだってそうで、頻繁にアウトプットすることを習慣づけたいけど、じゃぁなんかテキトーなことを並べていたら誰も読んでくれなくなっちゃうだろうし。(結果的に、あんまりアウトプットできていないのだから目も当てられませんが・・・。)

どちらか一方に寄っていたほうがずいぶん過ごしやすいはずです。なんだか宙ぶらりんに、あっちに行ったりこっちに行ったりしていたら、どうにも落ち着かない。両方を手にしようと思ったら、手が浮かばなくて途方に暮れそうだし。でも、そこで踏みとどまってあっちにもこっちにも行きたい、あれもほしいこれもほしい。矛盾を矛盾で片づけるのではなく、その中でさまよって、葛藤して、試行錯誤して、考え倒していこうと思うんです。

そして、どうにかして相反する二つの事柄をそれを成り立たせられたとき、そこに呑み込めた矛盾の分だけ「器」が少し、広がっているのかもしれません。そういうわけで、今日も明日も、粘って粘って、過ごしていこうと思う次第です。

未練たらたらが理想です。

突然ですが、私は未練たらたらな人生を送りたいと思っています。

これは、もう5年以上前、一緒に働いていた学生アルバイト(当時)のT君から学んだことです。彼は大学院まで進学したので、足かけ4年くらい一緒に仕事をしました。そして、就職が決まって、アルバイトを辞める最後の日の出来事です。たしか、3月31日だったような気がします。(つまり、就職先の入社式の前日までバイトしていたわけです。)

最終日だから、軽く飲みに誘おうかなと思っていても、なかなか仕事を終える気配がない。21時過ぎくらいだったと思います。おもむろに私の席にやってきて、3ページくらいのワードで作られた資料を差し出しました。そこには、彼が担当していた業務や企画についての、今後の進め方や考え方が記されていました。それを一つずつ説明しながら、「あれはもっとこうすればよかった」とか「もっと良い成果が出せるはず」とかコメントして、「じゃぁ」といってなんか自信を無くしたみたいにふらふら帰っていきました。ちょっと飲みに誘うのも気が引ける感じで。

その姿を見ていて、何かすごいと思ったんです。彼が手を抜いて仕事をしていたのならいざしらず、アルバイトという立場であったにもかかわらず、すごく一生懸命に仕事をしてくれていました。それでも、まだできることがあった、もっとやりたいことがあったと思えるというのはすごいな、と。

仕事にせよ、何にせよ、やれることは無限だと思うんです。もちろん、全力を尽くしたうえでの話ですけれども、それを、やりきった!みたいな感じで終わらせてしまうのはあまりにもったいない。もっとやれるんじゃないか、こうやってみたらどうだろう、そういうことにちゃんと気づいて、意識を巡らせながら過ごしていたい。悔いのないように!って言うけど、悔いがなくなったら終わっちゃう。悔いがあっていいんだ、と。

そういうわけで、日々、未練たらたらに過ごそうと思っている次第です。

ガウディという建築家は、事故でなくなる前日、サグラダファミリアの建設現場でこんなことを語っていたそうです。
「諸君、明日はもっと良いものをつくろう。」って。

組織の可動領域っていう話

転職して1年半くらい経つのですが、最近いろんな人と会話をして思ったこと。人のパフォーマンスって、組織の可動領域をどれくらい理解しているか、ってことによるんじゃないかなぁ、と。

新しい組織に入ると、なかなかパフォーマンスが出せなくて悩むケースってあると思います。やっぱり、その組織が経験してきた過去の出来事だったり、企業文化的なものだったりを理解するのに時間がかかります。で、なぜそれを理解しなくてはいけないかというと、それが可動領域と直結しているからかもしれません。

どこにどういう提案を持っていけばよいか、どういう切り口の提案が良いか、どういう段取りを組めばよいか。どこは積極的にいじって良くて、どこは触れちゃいけないか、とか。最初はそれがわからないから、今まで別の組織で通用していた自分のやり方で提案をあげる。でも、それだともちろん通らない。それは提案の善し悪しではなく、押す場所を間違っていたり、動かない場所も一緒に押しちゃっているからかもしれません。まだ文化が形成されていない数人のスタートアップならいざ知らず、それなりの時間が経過していれば、良くも悪くもいろいろな蓄積がある。どの組織だって、同じなのかもしれません。

過去に私がかかわった組織を振り返っても、「この組織はすごくいろんなことができる」と感じる人と、まったく逆の感想を抱く人が、同じ場所に同時に存在します。そしてそれは、個人のスキルとは関係なく。

ですから、組織をマネジメントする側の視点で見ると、可動領域をいかに見える化できるか、ということが重要なのではないでしょうか。私も、いくつかの組織でマネジメントをさせてもらいましたが、うまくいっている時って、これが体現できていたような気がします。自分が、率先して提案をしたり、何かを実現するような行動をとっていると、周囲もコツをつかんでいく。それによって、一緒に働くメンバーからの提案がすごく増えたり、全体のモチベーションが上がったり。そして組織全体がダイナミックに動けるようになる。そんなスパイラルがあったように思うのです。一方で、近視眼的に、何かをこなすことに追われていた時は、それがうまく機能しないので、組織のパフォーマンスが硬直化したり、離職する人が増えてしまったり・・・。

翻ってプレイヤー視点で見て、ある程度のキャリアを経て転職をした場合、その可動領域自体を広げるということも、場合によっては期待されているのかもなぁと思います。それは、とても力のいることですが、こういう動きができる人が増えれば、組織において多様性が発揮され、結果として組織全体の創造力が向上していくことになりえるのでしょう。これは組織が何に期待しているかを理解したうえでないとなかなか継続できないことかもしれませんが・・・。

まぁ、食洗器に食器を突っ込みながら、このラックはこれ以上曲がらないのか・・・なんて思ってたらこんな考えに至った、というのはご愛嬌です。しばらく、可動領域ってことを意識して、いろんなところを押してみようかな、と思う次第です。

WorkとJobってどう違う?

今回、自分の仕事観みたいなものを語ってみようと思って振り返ってみたら、予備校時代の1つの講義の記憶に辿りつきました。なので、今日はそれを紹介させてもらいます。

それは、確か「英文読解」とか、そんなタイトルの、私にとってはけっこう苦痛な授業だったと記憶しています。講師は高齢で、背が高く、いつもパリッとしたスーツをまとった方でした。そして、私にとっては苦痛でしかない、かなり長文の英語を解説しながら、誰々のこの表現は実に情緒的で味わい深く云々と、予備校の授業にもかかわらず、ずいぶん感性に富んだコメントをされていました。

その先生の最後の講義で使われた英文のタイトルが「WorkとJobの違い」でした。内容はかなりあいまいなのですが、ざっと紹介すると以下のような内容だったと思います。

WorkとJob。この二つの単語は明確に使い分けられていない。でも厳密に言葉を定義すると・・・「Work」は、芸術家の「作品」を意味する言葉でもあり、「機能する」といった語感を持っている。一方、「Job」は、part time jobといった使われ方からもわかるように、時間をお金に換えるといった類のものである。よって、それは明確に使い分けられなくてはならない。

確かそんな内容でした。そして一通り論文の解説を終えた先生が、おもむろに話しはじめました。

なぜ、自分はこの講習の最後にこの文章を用意したか。
この文章には、働くことの本質が語られている。
みなさんの多くはこれから大学に進み、社会に出て仕事をすることになるでしょう。
その時にこの文章を思い出してほしい。
そして、Jobではなく、Workをしてくれることを願っている、と。

残念ながら、文章は全く記憶に残っていませんが、その言葉だけは鮮明に残っています。

結局これが、私にとって仕事に対するモノサシになりました。今でもいつも、自分は「Work」をできているか、問いかけます。画家が自分の作品に色や線を重ねるように、音楽家が音を奏でるように、仕事に取り組めているだろうか、と。

もちろん、今までのキャリアのすべての時間が「Work」ではなかったけれど、この言葉があったから、自分は軌道を修正したり、姿勢を正したりできたんだと思います。モノサシがあることっていうのは大事なことだなぁ。そしてそれを与えられたことに、感謝しなくてはいけないなぁと。

そういうわけで、今日も明日も、自分の仕事がWorkであるようにと、気持ちを新たにする次第です。 

 

追記

この内容を書こうと思ってネットで検索をしてみたところ、この講義をしてくださった先生は、もう10年近く前に亡くなられていたようです。私はおそらく10回程度授業を受けただけですが、それでも今に至るまで強烈な印象を持っています。今更ながら、教えに改めて感謝し、ご冥福をお祈りします。

 

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